エメルソン、日本に謝罪と感謝「中澤は素晴らしいDF」「俊輔は魔法の左足」「小野は南米の超一流選手のようだった」(カルチョまとめ)

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【サッカー】<悪童エメルソン>日本に謝罪&感謝「中澤に俊輔、小野は超一流だ」実年齢21歳の“18歳”が札幌に。 [Egg★]
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1: Egg ★ 2020/05/13(水) 21:51:48.11 ID:f9zdk0cl9.net

写真
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でもブラジルでも問題児だったエメルソンだが、現在はコロナ禍のブラジルで慈善事業に取り組んでいる。

 とにかくスピードがあり、とにかく点を取り、とにかく問題を起こす――。あらゆる点で、規格外の男だった。

 まるで背中に羽でも生えているような軽やかな足取りでマーカーを引きちぎり、右足から強烈なシュートやぐにゃりと曲げたシュートを叩き込んだ。勝負強さも、群を抜いていた。

 その一方で、ラフプレーや審判へのクレームなどでFWとしては異常な枚数のカードを集め、大事な試合を欠場する。練習に遅刻したりすっぽかしたりは、日常茶飯事。不可思議な理由をでっち上げて母国へ帰ると、期日までに戻ってくることはほとんどなかった。

 本名は、マルシオ・パッソス・デ・アウブケルキ(「エメルソン」の名はどこにもない! )。1978年12月6日、リオ郊外の貧しい家庭に、2人兄弟の末っ子として生まれた。

 一家の住居は、町で最も危険な地区にある小さなバラック。床は土が剥き出しで、トイレすらなかった。小さなパンやわずかなご飯を皆で分け合い、空腹を抱え、土の上に敷いた薄いマットレスの上に雑魚寝した。

母が実年齢より3歳近く若返らせた。
 小さい頃からボールを蹴るのが大好きで、地元の名門中の名門フラメンゴの大ファン。プロ選手になって貧困から抜け出すことを夢見たが、栄養不足のため体が貧弱。周囲の評価は低かった。

「このままでは、息子はプロになれない。一家もこの状況から抜け出せない」と考えた母親が、窮余の一策を思いつく。彼が17歳のとき、「1981年12月6日生まれのマルシオ・エメルソン・パッソス」として出生証明書を作り直した。実年齢より2歳9カ月若い「エメルソン」が出現したのである。

 ブラジルでも公文書偽造は重大な犯罪だ。

 しかし、母親は法を犯してでも息子の未来をこじ開けようとした。後に「息子の年齢を偽ったことは全く後悔していないわ。もしそれをせず彼の将来を閉ざしていたら、その方が後悔していたでしょうね」と涙ながらに語っている。

 そして1996年、「エメルソン」はこの偽の証明書を持って名門サンパウロFCのU-15の入団テストを受けて合格した。

つづく

5/13(水) 20:01 ナンバー
https://news.yahoo.co.jp/articles/71e9791c09c40d62f4094ead10f18e56720f0917

2: Egg ★ 2020/05/13(水) 21:52:24.20 ID:f9zdk0cl9.net

実年齢21歳の“18歳”が札幌に。

 育成年代で、2年9カ月のアドバンテージは絶大だ。当時同じチームにいた後のブラジル代表MFカカより将来性がある、とまで評価され、1998年、17歳(実年齢は20歳)でトップチームに昇格。翌年のブラジルリーグで8試合に出場して2得点をあげた。

 もし本当に18歳なら、どのクラブも「金の卵」として大事に育てる。しかし、サンパウロFCの役員が彼の年齢詐称を察知する。ブラジルサッカー連盟から処罰を受けることを恐れ、期限付き移籍を画策。そのレーダーにかかったのが、コンサドーレ札幌(J2)だった。当時のチームは1998年ワールドカップで日本代表を率いた岡田武史が1999年から指揮していた。

 1999年末、札幌への1年間の期限付き移籍が決まる。18歳という触れ込みだったが、本当は21歳だった。

 年齢は偽っていても、「カカより上」と評された実力は本物だった。J2では別格の存在で、ピッチを縦横に駆け回り、面白いように得点を重ねた。34試合に出場して31得点。ぶっちぎりの得点王に輝き、チームを優勝とJ1昇格に導いた。

 サンパウロFCはエメルソンの完全移籍を求め、激しい争奪戦の末、川崎フロンターレ(当時J2)へ。2001年には川崎でも18試合で19得点と大暴れしたが、あまりにも問題行動が多く、8月に浦和レッズへ移籍した。

浦和でもゴール量産したが……。
 舞台がJ2からJ1へ変わったが、この男には全く関係なかった。

 2003年、ナビスコカップで8得点をあげてクラブ史上初のタイトル獲得の立役者となり、Jリーグで18得点をあげて年間MVPを獲得。2004年はJリーグで26試合に出場して27得点と大爆発し、チームのセカンドステージ優勝に貢献した。しかし2005年7月、ファンの思いをよそにアルサッド(カタール)へ去った。

 日本での成績はJ2で52試合に出場して50得点。1試合当たりの得点は、実に0.96点である。

 そのうちJ1では100試合に出場して71得点。1試合当たり0.71点で、50試合以上に出場した選手の中で4位。J1とJ2を合算すると、152試合で121得点。1試合当たり0.796得点というとてつもない数字になる。

つづく

3: Egg ★ 2020/05/13(水) 21:52:51.74 ID:f9zdk0cl9.net

母国で大失態から世界の頂点へ。

 その後は、レンヌ(フランス)などを経て2009年、子供の頃から憧れていたフラメンゴに入団。この年のブラジルリーグ優勝に貢献する。アルアイン(UAE)を挟んで2010年6月、フルミネンセへ入団し、ここでもブラジルリーグを制覇する。

 しかし2011年4月、コパ・リベルタドーレスの試合前、スタジアムへ向かうバスの中で宿敵フラメンゴのファンの間でヒットした歌(「フラメンゴ列車は止まらない」)を歌ってクラブ関係者を激怒させ、チームから追放されてしまう。やむなく、サンパウロのコリンチャンスへ移籍した。

 ところが、この大失態が結果的に吉と出る。またしてもブラジルリーグで優勝し、翌2012年、コパ・リベルタドーレスの決勝第2レグ(対ボカ・ジュニオルズ)でチーム全得点(2点)を叩き出して優勝の立役者となる。さらに、クラブ・ワールドカップでも決勝でチェルシーを撃破して世界の頂点を極めた。

 その後、ボタフォゴなどを経て2018年、コリンチャンスに復帰し、この年の末、40歳で引退。以後クラブのテクニカル・コーディネーターを務めていたが昨年末、辞任した。そんな流浪のサッカー人生を送るエメルソンに、日本時代の思い出、自身のキャリアなどを聞いてみた。

札幌、浦和……最高の勲章だ。
――日本でプレーしていた頃の最大の思い出は? 

「若くして日本へ渡ったわけだけど、この選択は俺にとって大正解だった。

 日本人は皆、とても礼儀正しくて、他人への思いやりがある。日本で過ごした5年半で、俺は選手としても人間としても大きく成長した。

 札幌で優勝と昇格に貢献できたし、浦和でも重要なタイトルを取ってファンに喜んでもらえた。彼らの笑顔が、僕にとって最高の勲章だ」

――とはいえ、日本ではピッチ内外の問題行動で話題を集めました。頭を抱えたクラブ関係者が少なくなかったようです。

「ああ、あれね……怪我の治療で遅れたこともあったし、家族の問題で来日できないこともあった……」

――当時の自分を振り返って、今、どう思いますか? 

「若かったから、多少の間違いをしたかもしれない。そのことで周囲の人に迷惑をかけたのであれば、謝るしかないな……」

――日本で最も苦しめられたディフェンダーは? 

「横浜F・マリノスの中澤(佑二)。大柄で、パワフルで、インテリジェンスもあった。でも、ハードではあっても汚いプレーはしない。素晴らしいディフェンダーだった」

――当時の選手で最も評価していた選手は? 

「一番好きだったのは、中村(俊輔。当時横浜F・マリノス)。魔法のような左足の持ち主で、状況判断も素晴らしかった。シンジ(小野伸二、当時浦和)は、とてつもないテクニシャン。まるで南米の超一流選手のようだった」

4: Egg ★ 2020/05/13(水) 21:53:23.12 ID:f9zdk0cl9.net

俺にとっての重圧とは銃撃戦だ!

――母国ブラジルでは、異なるチームで個人としてリーグ3連覇という偉業を達成。コリンチャンスでは南米王者、世界王者となり、サポーターからは永遠のヒーローとして敬愛されています。

「ずっと外国でプレーしていたから、2009年にブラジルへ戻ってきたとき、国内では全く無名だった。でも、結果的にブラジルを代表する複数の超ビッグクラブで活躍し、母国でも認めてもらえた。これまでの苦労がすべて報われた思いだ」

――コリンチャンスでは、重要な試合でことごとくゴールを決めました。試合前、プレッシャーは感じなかったのですか? 

「プレッシャーだって? 俺にとってのプレッシャーとは、周囲で銃撃戦が起きているあばら家で、怖さとひもじさに震えながら、横になっても全く眠れない夜のことを言うのさ。

 狂ったような形相の相手サポーターに『殺してやる』と罵られたところで、本当に殺されるわけじゃない。きれいな芝生の上で、真新しいユニフォームを着て、数万人の観衆の前でフットボールができる。そんなの、俺にとってはプレッシャーでも何でもない」

――日本と同様、母国でもトラブルメーカーとして名を馳せました。フルミネンセでいろいろあったし、コリンチャンスでもチーム練習に再三遅刻して罰金を科せられ、ついにはヘリコプターで練習場に駆けつけて話題になりました。

「フルミネンセでは、当時の流行歌をちょっと口ずさんだだけ。ヘリコプターで練習場へ行ったのは、時間に遅れそうになったからさ」

今は慈善活動に力を注いでいる。
――現在の活動について教えてください。

「2018年末、リオ郊外に貧しい子供、青少年らを援助するNGO『エメルソン・シェイキ基金』を設立した。以来、慈善活動に力を注いでいる」

――また何らかの形でフットボールの世界へ戻ってくる気持ちは? 

「人生では、何が起きるかわからない。チャンスがあれば、また何かやるかもしれない」

――日本のファンへのメッセージを。

「4つの外国でプレーしたけれど、最も印象深いのが日本。いつか戻って、多くの知人、友人と旧交を温めたい」

 リオで、元ブラジル代表CFロナウドの生家を取材したことがある。貧しくて危険な地域にある小さくて粗末な家だったが、それでも床にはタイルが敷いてあり、もちろんトイレもあった。

 ブラジル人選手の多くは貧しい家庭の出だが、その中でもエメルソンが強いられた環境は飛び抜けて過酷だった。

 十分な学校教育と家庭教育を受ける機会に恵まれなかったことは、容易に想像できる。現役時代、彼が多くのトラブルを起こした最大の理由は、そこにあるはずだ。

6: Egg ★ 2020/05/13(水) 21:53:42.51 ID:f9zdk0cl9.net

危なっかしいコメントもあるが。

 何が何でも成り上がろうと、あちこちに頭をぶつけ、痛い思いをたっぷり味わった。年齢を偽って名門クラブに潜り込み、相手選手の手に噛みつき(2012年コパ・リベルタドーレス決勝のボカ・ジュニオルズ戦)、気に食わない判定をする審判を罵倒したりしながら、なりふり構わず上を目指した。

 そして日本でも、中東でも、母国でも――見事な結果を出した。子供時代に夢想した富と名声を手に入れた。

 現役を退いた今は、「かつての自分のような恵まれない子供たちを助けたい」と優しい眼差しで語る。

 ただし、決して聖人君子になったわけではないようだ。いくつかのコメントには、危なっかしさを感じた。

 それでも、彼が絶望的な状況をひとつひとつ乗り越えた勇気と根性、そして積み重ねてきた努力には、脱帽するしかあるまい。

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